樹木の部屋

日々の暮らしへの感謝の中で、今、思うことを共有していきます。

脳のタイプと、腹におさめること。

問題を見つけると、解決したくなる。

目に見えてる問題ではなく、本当の問題はなんなのか。その問題を考え、見つけて、解決する。

 

ただ話したかっただけ。聞いて欲しかっただけ。どうすれば良いかを考えてほしいわけではない。

 

すれ違い。

 

すれ違いはなぜ起きるのだろう。

 

脳にはタイプがある。ASDADHDとか、障害として困っている人についての研究、報告が増えてきて、少しずつ興味関心が増えている。

 

障害、とまでいかなくても、そもそも色んな人がいる。同じことが起きても、感じること、みえること、思うこと、行動は人それぞれ。

 

話を聞くときに、自分の脳のタイプを全面に聞いてしまうと、その通りの言葉を発してしまう、行動してしまう。

 

そんなときに、すれ違いは起きるのか。

 

腹で考えると、相手が伝えたいことがわかる気がする。脳の特性で思うことは、腹でおさまる。

 

何十年と生きてきて、学ぶこと。幼いとき、若い時からわかっている人もいるのかも。でもそれで良い。

 

自分の特性は、変わらない。変わらなくて良い。

 

脳の働き。脳の検査。

小学校から中学まで、半年に一度、脳波の検査をうけていた。

 

頭に何本も線をつながれ、寝ないといけない。1時間ぐらいだっただろうか。終わるときか、つける時か忘れたが、頭の接点のところをクリームをつけて拭いてくれるのだが、それがとても嫌だった。

 

小学校の時は、病院に行くのは好きではなかったが、検査が終わると、病院の入り口にあるコーンスープを買ってもらえて、それを飲むのが楽しみだったことを覚えている。あまり行きたがらない自分に、行ってもらうために母が考えたことだったのだろう。

 

脳波の検査を受けるようになったのは、小学校一年生の時に後頭部をぶつけて3日ほど入院したからだった。最近みかけることがなくなったが、家の前の畑に、30cmぐらいの高さのブロックがならんでいて、その上からサッカーボールに乗ろうとして、転んでそのブロックに頭をぶつけた。母も確か外で近所のお母さんと話をしていたところで、血は出てないのでひとまず家で休んでいたが、眠くなってしまったのと、気持ち悪くて吐いてしまった。頭を打って眠くなるのは大変だと、近所のお母さんが、車で病院に送ってくれた。

 

そのまま病院では入院となった。点滴を打つ以外、特に何という治療はなかったと思うが、3日ほど入院。確か初日は一日気分が悪くくらくらしていたが、2日目からは特に問題なくなり、小学校の友達が心配して手紙というか寄せ書きを届けてくれたが、入院はひまだなぁ、と思っていたことを覚えている。実は結局、小学校ではこの時を含めて4回入院することになるのだが、たぶんこの時が初めての入院だったと思う。

 

この時初めて脳波の検査をしたのだが、その後も半年に1回は検査をすることになった。検査自体で特に異常があったわけではなく、問題ないかの検査だったと思うが、あまり覚えてない。

 

ちなみに、頭には気をつけてねと毎回先生に言われていたのだけど、小学校4年のときに、また頭をぶつけて入院した。体育館でたぶん体育の授業の後の20分休みだったと思うが、友達と鬼ごっこをしていて、ステージから2階にのぼるはしごで足を踏み外して転落した。脳震盪でその後は気づくと保健室で寝ていたのだけど、頭をぶつけたらしい。肩が少し痛かったから、頭を直接ぶつけたのではなくて、肩にあたってからだったから、それほどでもなかったのではないかと思う。さすがにこの時も数日入院となった。その後誰も言わなかった気がするが、たぶんこの時一緒に遊んでいた友達は、相当怒られたのではないだろうか。当然だが、休み時間に体育館で遊ぶのは禁止となった。ちなみにこの時は、脳波の検査だけでなく、CT検査もあったと思う。ぐるぐるまわるのと、なんか近未来的な装置の中に入れられて、とても嫌な感じがしたことを覚えている。

 

というわけで脳の検査はこの後も続き、引越した中学でも、別の病院で検査は続く。中学校まで確かつづいたが、特に問題はなく、中学で行かなくなった。

 

頭をぶつけたので脳波の検査をしていたが、ずっとしていたのには、何か理由があったのか。その辺りはよくわからない。幼稚園の時、ひきつけを数回起こしており、小学校以降はなくなったのだけど、それも関係していたのかもしれない。

 

というわけで前置きが長くなった。小学校、中学校と脳波の検査、CTを受けてきたのだが、特に異常があったわけでもないので、脳の働きに特別詳しいわけでも、なにもない。

 

ただ、頭で考える、ということは小さい頃から多かった人間ではないかな、と思う。誰しも考えるときは頭で考えるとは思うが、なんだろう、文字通り、頭で考えていた。目と目の間、眉間の奥の方に、力を入れて考える。眉間に皺を寄せているかんじだろうか。考える時は、自然とこうしていた。

 

10代、20代とこれを続けてきて、特別問題はなかったのだけども、高校生で整体に通わないといけないほど、肩こりはひどかった。あたり前なので気にしなかったが、頭痛が頻繁にあった。30代となってくると、肩や首のこりに、身体がついてこない。

 

そういえば、鍼灸院に最近通っているのだが、高校生ぐらいの子も来ている。スポーツをしていてその治療、というケースが多いようだが、心の面でも必要とする子が多いのでは、とも思う。

 

さて話をもどすが、30代となり子供が産まれるまでの数年は、身体をなんとかなおせないか、という気持ちで整体などを受けていた。治療により20代よりだいぶ良くなったのだけれども、どこか気になるところは残るので、なぜなんだろうか、やはり子供の時に頭をぶつけたことで、首や背骨に影響があるのだろうか、とかを考えていた。

 

実際、2度入院するほどの怪我はしているので、そういう面はあるのだろうが、今思うと、考えごとをするときに、頭をずっとつかっていたのだから、あたり前だったのではないだろうか。

 

頭じゃなくて、腹で考える。よく聞かれる言葉だが、30代になってこの辺りを気にするようになったのだけど、それ自体を頭で考えていた。

 

40代になって、やっと、考えなくて良い、ということに気づいてきた。

 

文字通り、腹で考えると、眉間や肩、首の力が緩むのがわかる。腹で考えると言っても、もちろん脳が作用しているのだろうけど、身体の力が抜けてくる。身体の力が抜けてくると、なんだろう、ぼーっとしているのとは違うのだろうが、考えようとしていることを、なにか少し遠くから、そしてゆっくりと、感じるような形になる。これが実際にどういう効果があるのかはわからないけれども、少なくとも身体の疲れには良さそうだ。

 

ところでこの頭で考えている時と、腹で考えている時って、脳波は違う動きをしているのだろうか。

 

四書五経。大学を読む。

「大学」を読んでいる。

 

四書五経の一つ。

四書とは「論語」「大学」「中庸」「孟子

五経とは「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」

そのうちの「大学」

 

江戸時代の寺子屋では、まず最初に「大学」を読んでいたらしい。

今の小学校一年生、といった具合の子供たち。

一方自分は、そもそも「四書五経」いずれも、しっかりとは読んでこなかった。

 

勉強をすることは好きだったが、なぜ勉強するのか、学ぶ順番、大切なことはなんなのか、というのは、あまり考えていなかった子供だったと思う。

もし小学校一年生の時に、「大学」を読み、学んでいたらどうだっただろうか、それはちょっとわからない。

 

自分にとっては、今この時に「大学」を読むというのも、それはそういう運命というか、定めだったのかな、とも感じる。

学問を学び、仕事をし、立場が変わってきて、そして家庭を持ち、子供が生まれた中で、子供を通じて、学ぶとはなんなのか、大切なことはなんなのかを、経験から、言葉にし、その上で、これまでの歴史が、家族が、人々が伝えてきた話を聞き、読むことで、自分の血となり肉となり、わかることができる状態になったのではないのだろうか。

 

一方で、息子にとっては、なぜ学ぶのか、そして何をまずするのか、そういったことを理解することが、第一歩として重要なのかな、とも感じている。

 

この「大学」を読み、理解し、実践することで、何かを息子や、娘に伝えることができればな、と思う。

 

 

チャレンジ

新しいことをする。チャレンジする。

 

延長線にあることをする。それは新しいことなのか、違うのか。

 

今の道をただ進むだけでは、新しいものは生み出せない、とも言うけれど、物事はつねに、延長線にしかないとも思う。

積み重ねの上に、新しいものもある。

 

でも、過去を見てばかりだと、チャレンジにはならない。

 

チャレンジってなんなんだろう。

 

などと考えていたら、子供たちは当たり前に、いつもチャレンジしていることに気づく。まぁやったことないことばかりなんだから、そうなんだけど。実際は、新しいことって、身の回りにいっぱいある。子供がやっていることって、大人にとっても初めてのものがほとんど。学校の教科書の内容だって、昔とは全然違うから、やればそれもチャレンジ。

 

年を積み重ねることで、やらなくなっていくことも多い。

 

考えているんじゃなく、まずはやっていることですね。

 

 

ダメなひと

サザエさんちびまる子ちゃん。日曜日の夕方の定番番組。

子供の頃みていたが、最近はあまりみない。ある程度の年齢になった時、なにが面白いんだっけ、と思うようになっていた。

 

特別なことが起きるわけでもない。日常がただ流れていく。特にすごい人がいるわけでもない。主人公は普通の人間、というか、ちょっとダメなところがある。

スーパーな主人公が、スーパなことを成し遂げていくわけではない。普通の主人公が、いつの間にか少しスーパーな存在になっていくわけでもない。自分探しも別にしていない。

 

ここでふと思う。そうか、ただ普通の、というか、ちょっとダメな人の、ちょっとダメな話を聞くのって、なんか落ち着きというか、安らぎを与えてくれるのかな、と。日曜日の夕方に放送されていることも、そんな意味があるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

靴の修理で思ったこと。

革靴3足のソール修理をしようと持っていった。1足はソール前面とかかと補修となったが、2足は底の痛みが激しく、オールソールが必要。価格を聞くと、見合わないな、と思ったので持ち帰った。残念だけど、処分することにする。

 

日頃の手入れが不足していた。日々使うものをもう少し大切にしていこうと思う。